種子島の民話「こうざぁの強力物語」

種子島の民話

発行所 株式会社 未來社
発行者    西谷能英氏
編者     下野敏見氏
日本の民話34 種子島の民話第二集よりお伝えします。

 

 

こうざぁの強力物語

 中西に柳田孝左衛門という強力な男がおりました。世間では孝左衛門を略して「こうざぁ」と呼んでいました。こうざぁの嫁は中田でしたが、ある時礼言いに行った時中田の青年(にさあ)達がこんな相談をしました。「こうざぁは強力とは聞いとるが相撲が強かたぁ聞いちゃおらん。相撲であれが鼻をへし折ってくれようじゃなっか。」ということで、こうざぁを呼んで相撲をとることになりました。試合前にこうざぁは米をつく臼を持ち上げて、「腕固めじゃ」と軽々と歩き回りますので青年達は、「こりゃ、普通の勝負じゃ勝てんぞ」とひそひそと何か相談しました。
 いよいよ相撲が始まりました。すると青年の方は立ち上がりざまに「とこいっ」と気合の声とともに、こうざぁの頭をたたきました。こうざぁはきょとんと大目玉を見張って「こりゃぁ、なんちゅう手か」と聞きました。青年達は、「そら、素首という手じゃ」と威張って答えました。さて、もういっぺんとることになりましたが、今度は立ち上がると同時に青年よりもこうざぁの手の方が早く上がりました。強力こうざぁの手が、はっしと青年の頭に振り下ろされたからたまりません。相手は一声もなく地面に叩きつけられて気絶してしまいました。「こら大問題じゃ、なっとすればよっか。」青年達はがやがやと騒ぎ立てて土俵を取り囲みました。でもこうざぁは落ち着いたもので、「いや、向こうがたたぁたから(叩いたから)おれもたたぁたとじゃ、こら素首という手じゃそうじゃ」と言って平然としています。土俵の真ん中に突っ立って大目玉を光らせながらそう言うこうざぁに、青年達はすっかりのまれてしまってこそこそと倒れた青年を運んで行きました。
 それ以来こうざぁの素首が有名になり、また恐れられることになりました。でも、怖いばかりがこうざぁではありませんでした。と言いますのは、屋久津で木挽きをしていた時のことです。その頃は手わきといって、のこでぎっこうぎっこう、大木を引いてました。もう正月も済んで、どこの部落でも砂糖すめ(製糖)が始まっていましたが、こうざあは鼻歌交じりで木を引いてました。すると突然、「助けてくれぇ、助けてくれぇ」と鋭い女の悲鳴が聞こえてきました。「こら何事か」とこうざあぁはのこを放り出して水車小屋へ飛んで行ってみました。キビ(さとうきび)を圧搾機にかませていた女が、袖を車の心棒の所に巻き込まれて、じりじりと機械の方に引きずられているのでした。もう一時の猶予もなりません。とっさの機転でこうざぁは水車の片方の心棒を「そらぁっ」と掛け声もろとも担いで、水が入らんように引き離しました。直径三間もある大きな水車もこれでピタッと回転が止まり、女は無事助かったのでした。
 さて次は、こうざぁが鍬を持った時のことです。むかし長谷の野は広い牧になっていて、馬を何十頭も放し飼いにしていました。部落では、牧の一部を共同で開墾して畠にして作物を作っていました。この開墾を「あらき打ち」といい、あらき打ちにはシバをはいで畝を盛り上げていく「うね打ち」と、山ぐわで打ってシバを返しておくだけの「平打ち」の二通りがありました。あらき打ちした畠の周囲にはほり(土手)を築いてその上に垣をして馬が入らないようにしていました。このあらき打ちに通っていたこうざぁは、いつも人より遅れていくので、みんなの機嫌がよくありません。こうざぁにはそれがよくわかるので癪にさわってなりませんでした。
 ある日、「おらぁ、遅う行ったちゅうて人よりか仕事は早う済まぁてしもうわい」とつぶやきながら、いつもよりもさらに遅れて行きました。
 空は青く澄んで、見渡す限りのカヤの穂波の果てに屋久島が美しい姿をくっきりと見せています。あまりの気持ちよさにこうざぁは思わず口笛を吹いていました。
 一方、もう何時間も働き続けてすっかり疲れていた人々はこうざぁのそののんきな姿が癪に障りました。中の一人が険しい声で、「こうざぁ、わごう(おまえは)いつも遅か上ぇ、今日はまたなんちゅう遅かことか。」こうざぁも、むっとして「いや、いくら遅う来ても、わんたち(おまえたち)のやるしこ(やるだけ)やれば良かろうが」と言い返しました。ところで、一日に人畝を平打ちすれば一人前と言われていました。「何を今頃来てえぇて(来ておいて)」と一人がはね返すように言いました。「そいじゃぁ、わんたちのやるしこやっから一畝をわって出せ」とこうざぁは胸を張りました。そして、一畝を割り当てられたこうざぁは一心不乱に打ち続け、見る見るうちに見事に打ち返してしまいました。みんなは癪に障るやら、あきれるやらで、「わごう、ま一日分(もう一日分)割るからそれもやれ」と言ってさらに一畝を割り付けました。こうざぁは一向に平気で、たちまちの間にそれも済ませてしまいました。
 ところで、こうざぁのひら打ちは、ケダ(ひさかき)も何もごいごい引っこ抜いてしまうのでシバも木の根についてこやされ、後には草は一本もなく打つ必要もなかったということです。しかし、いざ作り物をする時には草こそ無いものの力任せに土を掘り起こしてあるので凸凹がひどく、それをならすのに七日もかかったということです。
 その長谷では、毎年馬追いがありますが、これは部落で一番の晴れの行事なのです。青年達は、それぞれ嫁女からもらった着物にたすき掛けで、広い牧のあっちこっちから馬を一ヶ所に追い込んでそしてオロの中の暴れ馬に飛び乗ってくつわをかませてつなぎ、尻に焼き金をおしたり、耳にはさみを入れたりして部落の印をするのでした。
  この馬追いには、あちらこちらの部落から何千人の見物人が集まったということです。馬追いの青年達の勇ましい晴れ姿に娘たちは黄色い声をあげてはやし立てるのでした。
 この朝、同じ中西の友達がこうざぁを訪ねて、「こうざぁ、わぁも馬追いに行くろうが」と誘いました。するとこうざぁは、「まぁ、おらぁ今朝んかぁり(朝食前の一食)食いじゃから待て。」と言って、漬物をかみかみ、水ガメからがぶがぶ水を飲んでいます。待っている友達は気がせいてたまらないのですが、こうざぁはゆったりと水がめのそばに尻を据えて、食っては飲み、飲んでは食いして一向に立ち上がる気配もありません。こうざぁの朝んかぁりが、こうしてまた有名になりました。
 さて、このこうざぁがウナギを釣り損ねたことがあります。それは島間川の川上、柳の口のはら山あたりが深い淵になっていましたが、淵の少し上手のイゼにむかし大ウナギが住んでいました。ある日、このウナギがイゼを這い上がって、長谷に行き、子馬を飲んだのです。ところが、上がってくるときは夜明け方で露があって滑りが良かったのですが、帰りは子馬を飲んでいるので体の自由がきかず、日に干されて死んでしまった、という言い伝えがあります。その淵にまた大ウナギがいるという噂が広まりました。それを聞いたこうざぁはあまり上等でない知恵を絞った挙句、加治屋に頼んで鉄棒をまげて釣り針を作り、それに親指ほどの太さのシュロの綱をつけ、はえ縄をして岸辺の二尺周りの椿の木に結び付けておきました。翌日夜明けを待ちかねて淵に行ってみますと、椿の木は根こそぎ引っこ抜かれて針も綱もありませんでした。「ちょっしもうた。今ウナギを捕まえんばじゃったものを」とこうざあぁは地団太踏んで悔しがりましたが、その後もこのウナギだけはこうざぁも手をあげたのでした。
 このこうざぁがどんなに強力で強情であったかは今までの話でも分かりますが、惜しいことに知恵のめぐりがちょっと遅かったことも事実でした。ある年大変な日照りで、峰の方に畠を作っていた人は大きな被害を受けましたが、くぼ地の方に作った人は助かったことがありました。こうざぁは上中と大川の間の大田尾字の大地に畠を作っていたので、相当な日照りの害を受けたのでした。翌年、こうざぁは前の年日照りだったからというので窪地を一生懸命耕しました。するとその年は大雨続きで窪地は大変な被害に見舞われました。こうざぁは次の年、窪地は大水だったからと大地に畑を作りました。ところが皮肉なもので、前々都市以上の日照りで作物は全滅してしまいました。いかにもこうざぁらしい話ではありませんか。
 今も残っている「こうざぁ窪」はこうしてできたものなのです。