資料館だより

資料館だより

特別編 中種子町郷土誌⑪ 「移民・開拓地④」

 鹿児島本土からの移住は、大正3年の桜島大爆発による罹災者の移住があげられます。「大正三年噴火 五十年記念誌 西桜島村」によると1926戸、13239人が罹災したと記載されています。これらの人々の移住の候補地として西之表市(当時の北種子村)外14ケ所があげられました。その中で西之表市が最も収容力があるとされ、移住先の大きな候補地となったようですが、どれほどの人々が移住したかは不明です。また、その移住者のほとんどは西之表市への移住で、中種子町への移住は僅少であったようです。
 その他にも、種子島は鹿児島本土から比較的近距離のため入島者が多く、特に、鹿児島市の谷山からは、野間の旭町集落や坂井の新町集落へ移住しています。
 新町集落への移住については、西南の役(明治10年)に敗れて当地に逃れてきた谷山の田中金蔵兄弟が、この地が漁業に適することを知り、谷山に帰り一族を率いて永住の地とし、熊野浦の漁港としての基礎を作りました。
 その後、大分・桜島・加世田・頴娃・五島・甑島などからの移住者があり、大正の初めごろ新町集落ができました。
 鹿児島県外からの入島者としては、増田大石野、池之平に移住した静岡県人がいます。明治42年に栗田氏外2名が移住したもので、今日の茶業の基礎を作りました。
 戦後は外地からの引揚者や移住者などで急激な人口増加がみられ、それに伴い本町内にも数多くの新集落がみられるようになりました。